開拓と共に歴史の幕が開いた北見ハッカの歴史

薄荷(ハッカ)最盛期の昭和14年には、作付け面積2万ヘクタール、ハッカ結晶(薄荷脳)と薄荷油合わせて336トンを輸出。
実に世界の7割の薄荷が北海道北見市周辺で栽培されていたことをご存知だろうか。
情報化が進んだ現在では一地方が一分野で世界を席巻することなど考えれないことだ。
冬の海は流氷に閉ざされ、当時は内陸路の整備も進んでいない、日本北端の山間の地・北見に世界をリードする産業があったのである。
薄荷(ハッカ)はメントール成分を多く含むミントの一種であり、ミントはハーブの代表的存在である。
すなわちこの地はハーブ文化の先進地であったといえるのである。
街の礎を築いた薄荷(ハッカ)の歴史をひもとくと、悲喜交々の物語が幾度にも綴られ、香りの記憶とともに住時の姿が蘇ってくる。
農作物としての薄荷(ハッカ)栽培は明治29年、当時の勇別村の薬種商、渡邊精司が永山(旭川市)から薄荷(ハッカ)の種根を取り寄せ栽培したことに始まる。また翌年の明治30年、遠軽の小山田利七が故郷の山形から種根を取り寄せ栽培し、2年後の明治32年山形から持ち帰った天水釜を用いて蒸留したことが、北海道北見薄荷歴史の始まりである。
薄荷蒸留は乾燥させた薄荷(ハッカ)の葉を釜に入れ水蒸気で蒸すと、油(香り成分)を含む油と水の混合気ができる。それを冷却し比重の差から油と水に分離させる作業で、できた油を「取卸油」(とりおろしあぶら)といい、とても高価なものであった。
屯田兵が北海道北見に入植したのが明治30年。
開拓農家の副業として高額な収入になる薄荷栽培は盛んとなり、瞬く間に主要農作物の地位を占めた。
小山田利七が蒸留を始めた頃は「取卸油」は山形まで持参していたが、やがて薄荷商人が北見に買い付けにくるほどにその量は増えた。こうして一大産地が形づくられていった。
これらの背景には、北見の自然条件が薄荷(ハッカ)の育成に適していたこと、大豆や小麦に比べ当時7倍以上も高値であったこと、「薄い荷」と書くように「取卸油」がコンパクトで運びやすかったこと、蒸留後の薄荷草が馬の飼料や畑の肥料に適していたことがある。